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京都にて京都を夢見る

2013年6月CYBテキスト
京都にて京都を夢見る

京都にありて京都を夢みる。この言葉は17世紀の偉大な俳句の詩人、芭蕉のものである。現実を喚起するこの力、特異な知覚の中の夢の力、重なり合う時間の唐突な出現——それが私のヴェネツィアの体験である。純粋に抽象的なアプローチから、いかにして私が再発見された現実の呼びかけに屈せざるを得なかったか、それがここにある。

京都についての体験は異なる。夢であり、言葉の喚起力——川端、谷崎、村上春樹の入り混じった深淵——が絵画的現実となるのである。枯山水の存在、その畝が瞑想を誘う。枯山水の畝のあらゆる細部、そして日本庭園のあらゆる要素のすべてが、絵画的瞑想を開く。

私は水に変わる畝であり、魚に変わる岩である。私は鯉であり、龍であり、虎である。

身振りと筆の時の中で、常に再発見される楽園である庭において、私は岩であり、侍であり、きらびやかな絹の大きな着物である。

飛び石と石塊の混沌の中に、一つの道が描き出される。ありえないようでいて確かな道が。噴き出す草、這い上がる苔が、まなざしに歓喜の道程を差し出す。

抽象画家は、形と素材のこの変容の中にわが家を見出す。京都を夢見ながら、色彩の饗宴を描きながら、心に愛しい空間の現実を、その歌によって呼び寄せるのである。